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3 文豪

「二階の住民よ。金ちゃんがこの家を買い取る前から棲みついている古株なの。」

お福の言葉に、蔵之介は全身を脳みそにして考えた。
二階は別の人に貸している、ということであれば不動産屋から当然話はあるはずだ。確かに、店の準備をしているときに、二階できしむ音が聞こえたり、紙を裂くような音が聞こえたり、何か気配を感じるようなことは、何度かあった。
しかし、だからといって、誰かが棲んでいる、という発想には至らなかった。

「もしかして…それは…――いわゆる、幽霊というやつ…?」

するりと軽やかな足取りでお福が階段を昇っていく。それを追うように蔵之介は階段を軋ませながら二階へと上がった。

「幽霊…、なんだか、文学的じゃないわねえ。」
「別に俺は文学者じゃない。」

お福が立ち止まったのは、書庫よろしく本棚が並ぶ通りに面した部屋の前だ。


「人ならざる者、人でない者、つまり我々は“人でなし”だな、お福。」


襖の向こうから、年配の男の声がした。

「言えてるわあ、さすが、アガサセンセ。」

蔵之介が勢いよく襖を開くと、窓に面した文机の前で胡坐あぐらをかいて腕を組む男の後ろ姿があった。


「誰だ、あんた!」

「誰だと聞かれれば、かの江戸川乱歩と肩を並べる文豪、阿嵩栗栖あがさくりすと言う。」

阿嵩は尻を軸にして、胡坐を掻いたままぐるりと蔵之介に向き直った。
つむぎの着物に羽織がよく似合っている。日本の文豪一覧に乗っていてもおかしくはない風貌である。

「自称文豪。」

お福がこっそりと耳打ちした。

「金さんから話は聞いているよ。」

「爺さん?」

「ちょっくら浄土に遊びに行くから、もし孫が来たら、頼むってね。」

「死ぬ前に?」

「どっちだったかな。死ぬ前も死んでからも元気だから、よく覚えていない。」

阿嵩は煎餅布団を二枚投げて寄越した。
蔵之介は何から言及すべきか悩んだ。なぜ、祖父は、蔵之介がこの店に来ることを予想していたのか。死ぬ前も死んでからも元気とは、どういうことか。

そもそも、ここまではっきりと会話をし、存在を認識している目の前の男は、本当に幽霊なのだろうか。

だが、どれも質問にするには、くだらないことのように思え、――というより、納得のいく答えは返ってこないだろうと思い――蔵之介は今のところ一番気になるところを訪ねた。

「江戸川乱歩が、エドガー・アラン・ポーの名前をもじったというのは有名な話だが、阿嵩栗栖という名前はもしかして、アガサ・クリスティの名前を?」

「その通り。エドガー・アラン・ポーよりもアガサ・クリスティの方が、ミステリー小説の執筆数はるかに多いからね。」

蔵之介は、熱心な読書家というわけでもないし、ミステリ愛好家というわけでもない。
一般的な知識の限りでは、阿嵩栗栖という小説家を聞いたことはなかった。

「ちなみに、主な作品は…?」

「“F坂の殺人”“路地裏の散歩者”“白蜥蜴”などなど。」

「江戸川乱歩の小説に“D坂の殺人”“屋根裏の散歩者”“黒蜥蜴”というものがあるが…。」

む、と阿嵩は唸るような声を漏らし、腕を組み直した。

「もじり詩というのも、立派な文学のひとつだと思うがね。江戸時代の粋な者たちが短歌をもじった狂歌というものを楽しんだという。それこそ、今では“ぱろでぃ”と言われて、ひとつの文学形式にもなっているじゃないか。当時認められなかったのは、私は、少しばかり先を歩きすぎたということだろう。」

阿嵩は自分の言葉に納得したように、何度も首を縦に動かしている。

「そう、阿嵩栗栖という名前も壁だったな。ある出版社では女の作家は受け付けないと言われ、またある出版社では女の作家かと思ったら男の作家だったとがっかりされた。」

「出版社は、断る理由を探していただけじゃない。」
茶化したようにお福が言った。

「オリジナルはないのか?」

「阿嵩栗栖の遺作となる“そして誰もが戻ってきた”」

蔵之介は本棚に視線を向け、外国小説の中に堂々と並んだ、アガサ・クリスティの代表作『そして誰もいなくなった』に目を留めた。

お福と阿嵩も釣られて、それを見る。阿嵩は肩を竦めた。

「よく知っているね。」

「たいていの文学作品は映画やテレビで流されているからね。読書好きでなくとも、ある程度は知ってるさ。」

「嗚呼、厄介な世の中だ。」

「でも、パロディは確かにひとつのジャンルとして確立していると思う。文学作品をもじった漫画や、漫画をもじったドラマだって出てくるぐらいだ。内容を読んでないからわからないが、“そして誰もが戻ってきた”なんて民放が喜んで使いそうだな。」

「読んでみた方がいいわよ。」
お福が茶化すように口を挟んだ。
「読まなくていい。」
阿嵩が遮る。

蔵之介は笑いながら首を振った。

「読まなくても、だいたい想像がつく。途中までは原作と同じように進んでいくけど、実は全員死んでいなかった、とか。もしくは、一家離散になった家庭が元に戻っていくヒューマンドラマとか。…――どうだい?」

「まあ、なんだっていいじゃないか。それより――」
「そんな単純な話じゃないのよ、いえ、そんな複雑な話じゃないのよ、かしら。」

お福は阿嵩の言葉に被せて、蔵之介に身を寄せた。
重大な打ち明け話をするように、背中を丸めると、わざとらしく声を潜める。

「なんたって、主人公はしかばね。」

「シカバネ?死んだ奴が主人公ってことか?」

「そう、可哀そうに、財産目当てで弟に殺された男なの。主人公は、そういう無念の思いを持った屍たちに、彼岸に自分を葬った人間たちに復讐しようと呼びかけるのよ。」

つまり、彼岸の日に“誰もが戻ってきた”ていうこと、と付け足すと、お福はまた、くすくすと笑った。

「なるほど。彼岸の日に悲願達成、なんて、まさかの謎かけ?」

阿嵩の耳がぴくりと動く。蔵之介は微妙な空気の中で言葉を探すように目を泳がせた。

「……。まあ…、死者が蘇って人間に復讐するなんて、ハリウッドが喜びそうな話だと思う。」

「かりうど?」お福が首を傾げた。

「ハリウッド。アメリカだよ。」

「亜米利加!」

押し黙っていた阿嵩が唐突に叫ぶ。

「なるほど、亜米利加ほどの大国が好むとは、日本人庶民には少しばかり高度だったということだな。」

阿嵩は急に上機嫌になると、満足げに頷いた。

2010.09.30 | 第1章

4 梵蔵太郎

無事、店がオープンして2ヶ月ほど経った頃。

オープン当日を襲った大雪の気配もどこへやら、春の日差しが暖かい季節になっていた。
金鳳亭の名で、ある程度のファンが出来ていたこともあり、悪くはないスタートだった。

高い調度品よりも、シンプルな造りで比較的安いものを揃えているため、新しくこの界隈にオープンするという店のオーナーなどもやってくる。
4~5ヶ月に1度のペースで蔵や古民家から出る古道具を処分するというRE:KURAプロジェクトの活動を考えると、売れすぎもせず、売れないわけでもなく、ちょうど良いと思える売れ行きだった。W大学の後輩が荒川区で家業の運送業を営んでいることもあり、都内の配送については安価に仕切ることもできた。
また古道具を引き取ってくれないかと言う要望もあり、買い取りについても請け負うことにした。そのため、家具だけでなく、扇風機、古い硯や昔のポスターなどの古雑貨も揃うようになり、懐古主義者やレトロ好きを喜ばせた。

お福も外面よく看板猫として客に可愛がられていた。

縁起が悪いと言われがちな黒猫のくせに、携帯の待ち受け画面にしておくと恋愛が成就するなどと、誰が言い始めたかそんな噂もたち、お福を携帯カメラで撮ってはしゃぐ若者の姿も目立つようになった。時に邪魔であり、時に客寄せパンダになるので、無下にも出来ず、蔵之介は苦笑を浮かべて眺めるしかなかった。

そんな苦い顔の蔵之介もいつの間にかカメラに収められているのだから、侮れない。

そして、数日後に「谷中の猫と古道具屋のイケメン店長」としてブログに掲載されているのだから、個人情報や著作権はうるさいくせに、肖像権はあってないようなものだと実感する。とはいえ、30過ぎてから若い娘に“イケメン”と言われるのは悪い気はしないので、特にそれを咎めるつもりもなかった。

とはいえ、いくつか書かれたブログのコメントの中に「イケメン??」「もう少し若かったら」「顎のラインが…」などと勝手な意見も上がっているのが腹立たしい。


「どうもー!ボンクラさーん!」

店先で女の声がした。

“梵蔵堂”という名前にして唯一計算ミスだったと思うことがひとつある。
店であれば、店の名前は知っていても、店主の本名など知らない、というのは普通である。祖父が金鳳亭さんや金さんと呼ばれていたように、「梵蔵堂」であれば、梵蔵堂さんや、梵さんと言われるのが当然だろう。
ただ、人は言いやすい言葉を選ぶ。
「金鳳亭」をキンポさんと呼ぶ人は、どことなく危険な匂いもするし誰もいないだろうが、「梵蔵堂」は、堂まで言わずに「梵蔵」でひとつの言語になるため、自然な流れで「梵蔵さん」と呼ばれることになるのだ。

要は、毎日「ボンクラ」と言われる。
なんだか、これも全て祖父に導かれた感じもして、妙な敗北感を感じるのだった。


「あれえ?ボンクラさぁーん!いないんですかー!」
「そんな大声出さなくても聞こえてます。」
店先に出て行くと、着物姿の若い女性が手を振った。
「そうでしたか、失礼。どうもどうも、雲丹屋うにやです。」

オープンして間もない時に、梵蔵堂の看板をどうしようかと悩んでいると、不意に訪ねてきたふじみ荘の明地夫人が
「まあまあ、それならうちに確かデザイン会社さんが入っていたはずだわ。とても愉快な方だからご相談してみてはいかが?」
と紹介してくれたのが、ふじみ荘の103号室に【不死身雲丹屋図案社】と手書きで書かれた表札をぺたりと貼っている怪しげな会社のデザイナーである。

「いやあ、この前お店を見た瞬間にピーンとインスピレーションが湧きましてね、頼まれた看板、もう出来ちゃったんですよ。」

後ろには男がニコニコと愛想よく笑っていた。台車の上に重そうな荷物が乗っていて、その上に白い布がかかっている。

「あ、彼はネットショップの店長です。」
蔵之介は慌てて頭に巻いていた手拭いをほどくと、店長に頭を下げた。
「初めまして、ネットショップではお世話になってます。」

看板を頼むときに、勢い余って「よし古道具のIT革命やー!」と雲丹屋と盛り上がり、雲丹屋図案社が運営するネットショップ【不死身雲丹屋売店】で梵蔵堂の古道具を委託販売することになったのだ。
家具よりも小物や雑貨が中心だが、それなりに好調だった。

「それで…、ああそう、この看板なんですけど、ちょっと問題がありまして。」

店長が白い布をぱっと取ると、丸い木の看板が姿を現した。

品揃豊富、高額買取、という文言の間に、「梵蔵堂」の店名が堂々と書かれている。
古い看板を再現した見事な造りだった。

「凄いな…、漠然としたイメージを伝えただけなのに理想通りだ。問題ってのは?」

店長が木の看板を台車から下ろした。丸いので、支えないとゴロリと転がってしまう。

「あらびっくり、この看板は自立しません。」
「……っ。」
「いっそゴロゴロ転がる看板!これぞボンクラな看板だ、なんて!あはは…」
「………。」

雲丹屋は軽く咳払いをすると二階を見上げた。

「やっぱり、二階に括りつけるしかないですかねえ。二階、上がってもいいですか?上がりますよ。」

雲丹屋は草履を脱ぐと、居間に上がっていく。店長が重そうな看板を軽々と持ち上げて、雲丹屋の後を追った。

「いやいやいや、ちょっと。」

水屋箪笥にでも立て懸けようか…と考えていた蔵之介は、二人の行動に一歩出遅れ、慌てて二人の後を追った。
通り側の部屋は、思い切り阿嵩の部屋である。あの勢いで入っていけば、またややこしく機嫌を損ねるに違いない。

お福は居間に寝そべったまま、面白そうに一同を見送った。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 


雲丹屋は通り側の部屋の襖を開くと、驚いたように立ち止り、文机に向かう阿嵩の後ろ姿にぺこりと頭を下げた。

「あや、失礼。雲丹屋です。ちょっと看板をぶらさげるのでお邪魔しています。」

蔵之介と振り返った阿嵩は唖然として雲丹屋を見た。
店長が後ろから覗き込み、部屋を見回しながら「なにかいるんだね。」と頷いた。
雲丹屋はフンフンと謎の歌を口ずさみながら、窓を開けると、屋根を見下ろす。

「店長、ちょっとちょっと。ここに看板括りつけるって大丈夫かなあ。」

店長が窓から身を乗り出して、手すりや屋根の強度を確かめはじめた。

「金さんが一度立派な看板を作って屋根に取り付けたが、台風の日に外れかかって、それ以来危ないから下ろしていたよ。」
阿嵩が蔵之介に言うと、雲丹屋が振り返った。

「ですよねえ。やっぱり自立できるように作り直すべきかなあ…。」
「また見事に丸っこい看板を作ったね。ところで、ウニさんは私が見えるのかな?」
「雲丹屋(ウニヤ)です。ああ、若干透けてると思ったら、やっぱり幽霊さんでいらっしゃいましたか。なんででしょうねえ。見えるんです。」
「彼には見えないみたいだね。」

懸命に看板を取り付けようと身を乗り出している店長の後ろ姿を示して、阿嵩が言った。

「ええ。彼には別のものが見えます、お金の流れとか細かく。そっちの方が不思議。」
「ああ、そっちの能力の方が羨ましいね。」
蔵之介は頷いた。

「そう、ウニさん。あれ、使えないかな。」
「雲丹屋です。あれって?」
阿嵩が押入れを示した。
「前に金さん…ああ、蔵之介の爺さんで、元々ここで店をやっていた男だが、それが酔っぱらって持って帰ってきた変な人形があるんだ。」
「それは、ケンタッキーおじさん的な何かですかね。」
「そう、たぶんどこかの店の看板小僧だったんだろうな。もう15年くらい前になるが。」
蔵之介が押入を開けると、奥の方で何かと目が合った。

「……。」

後ろから雲丹屋が覗き込む。
「はっ…、何かが居る…。」

蔵之介がズルズルと引っ張り寄せると、それは全貌を現した。
カンカン帽をかぶり前掛けをした、昔の商人風の男の木彫人形だった。

「死んだ魚の目をしていますね、コレ…。」
雲丹屋が唸った。

朽ちて汚れてはいるが、足元はしっかりとしている。
「どうぞいらっしゃい」とばかりに折り曲げた手は、何かを引っかけていた痕があった。

「店長、店長、看板、看板!」

いまだに窓から身を乗り出していた店長はパンパンと手を払うと振り返った。
「やっぱり屋根の上に取り付けるには補強しないと、――おわ!」

急に現れた木彫人形に足を竦める店長から看板を奪うと、
雲丹屋はその人形に看板を持たせた。


bonkura.gif


「おお!」

まるで、その看板は最初からそこにあったかのように綺麗に収まった。
木彫人形の死んだ魚の目が看板の向こうからチョコンと出て、こちらを見ている。
今まで無表情に見えていた顔が「寄ってね。」と言いたげに見えた。

「なんてベストマッチ…。」

拍手を送る三人に、店長も加わった。

「よおし、ここはひとつ、この阿嵩栗栖が命名しよう。梵蔵堂のシンボルとしてふさわしい名前… ………―――梵蔵太郎。」
「おお!溜めたわりに捻りのない名前…!」

こうして、梵蔵堂の看板小僧“梵蔵太郎”は阿嵩の部屋にて産声をあげた。




【第一章 終】

2010.10.30 | 第1章

1 前掛け

「あ゛あ゛!?」


朝から響いた声に、まったりと寝そべっていたお福は顔を上げた。
居間から見える店舗に蔵之介の背中が見える。

「どうしたの、蔵ちゃん?」
「ちっ!この棚、釘が出てやがった。注意してたつもりだったのになあ。」

棚の前に屈むと、居間から降りるお福に飛びだした釘を見せた。
黒い棚に紛れて見えにくいが、確かに錆びた釘が頭を出している。

「あーあ、危ないわねえ、怪我でもしちゃった?」
「怪我はしてないが、着物がやられたな。」

蔵之介は立ちあがって、紺色の紬の着物を示した。
明地夫人から「箪笥のこやしにしても仕方ないから…」ともらった着物のうちの一枚だ。

「本当、見事に引っかけちゃって。
 明地さんに言えば、繕ってくれるんじゃない?」
「ん、そうだな…。」

釘抜きで錆びついた釘を引き抜くと、同じ場所に目立たない釘を打ち込みながら、蔵之介は頷いた。
その作業を横で見ながら、お福は呟いた。

「明地さんって、金ちゃんのこと、好きだったのかしらね?」
「はあ?相手は爺さんだぜ…?」
「あら、いくつになったって恋する気持ちは一緒でしょう?男と女ですもの。」

まあそうだけど…、と棚を磨きながら言う蔵之介にお福は笑った。

「金ちゃんはモテたのよお?粋でお洒落でカッコイイし。
 明地さんもお洒落で綺麗だしねえ。10歳以上、年は離れてるけど。」

蔵之介は磨く手を止めずに視線を泳がせた。
明地夫人の柔らかい笑顔が浮かぶ。

「蔵ちゃんを色々とお世話してくれるのは、孫みたいに思ってるからじゃないかな。
 そうやって着物を着てると、金ちゃんと血が繋がってるんだなあって思うもの。」

にこにこと笑ってお福は、悪戯っぽく瞳を細めた。赤い唇を蔵之介の耳に寄せる。

「ひょっとして孫じゃなくて男として見てたり…。」
蔵之介は立ちあがった。
「阿呆か!んなわけねえだろ。」




「蔵之介さん、こんにちは。あら、お取り込み中だったかしら?」
振りかえると、入口に薄紫の着物に身を包む明地夫人の姿があった。
「…!?あ、明地さん!いや、その、ちょっと、電話をしてたもので。」

首からぶらさげた携帯を切る振りをして、蔵之介は手でシッシと追い払った。
お福は悪戯っぽい笑みを浮かべたまま、ニャオンと鳴いて居間の方へと消える。

「うちの教室で、着付けの1日体験会をしようと思っていてね。
 そのお知らせの紙を貼ってもらえないかしらとお願いに来たのよ。」
「ああ!それは喜んで。10枚でも20枚でも貼りますよ。」
「嗚呼、良かった。あらあら、そんなに持ってきてないわ。」
明地夫人は可笑しそうに肩を揺らすと、告知の紙を蔵之介に渡した。

「あら…?」
夫人の視線が蔵之介の太股のあたりに注がれている。
「ああ。」

蔵之介は頭を掻くと、黒い棚を軽く叩いた。
「釘にやられてしまいました。頂いたばかりなのにすいません…。」
「このぐらいなら繕えば目立たなくなるわ。怪我をしなくて良かった。」
明地夫人は、ほうと息をつくと、顔を上げた。

「でも、これからもこういうことがありそうねえ…。前掛けはお持ちでない?」
「前掛け?エプロンってことですか?」
「エプロンと言ってしまえばそれまでですけれど、ほら、酒屋さんとかがよくしているでしょう?
 お酒の名前が入った紺色の帆布をこうやって前で締めて…。」

蔵之介は、よみせ通りで酒を買い込んだ時に見かけた店主の姿を思い出した。
有名な日本酒の名前が入った前掛けを締めて、重たそうなビールケースを積み上げていた気がする。

「カッコイイですよね、あれ。普通に売ってるものなんですか?」
「酒屋さんがしているのは、お酒を作っている会社から貰ったものではないかしら?
 主人の集めていたものを差し上げてもいいのだけど、別のお店の屋号が入っていても、ねえ?」

思案するように明地夫人は頬に手を当てた。
「いっそのこと、梵蔵堂の前掛けを作ってしまえばどうかしら?
 …なんて言いたいところですけれど、私の知り合いの職人さんは、
 ずっと前に店を閉めてしまって。」

ふと風間の顔が浮かんだ。
RE:KURAプロジェクトを社内向けに発表したとき、プロジェクトチーム全員で身に着けていたもの。
“RE:KURA”と書道家の文字で書かれたTシャツと…――

「そうか、前掛けか。」

全員で締めていたのは同じ文字が書かれた紺色の前掛けだったはずだ。
飲みに行くついでに聞きだしてもいいかもしれない。

「あら、何か思い当たったようね、良かったわ。
 前掛けをしていれば、着物も汚れないし、先ほどみたいなことがあっても、着物に傷はつかないでしょう?
 腰骨でしっかりと巻けば、重い物を持っても腰も痛めないの。」
「へえ、エプロンよりもしっかりと意味があるんですね。」
「昔の人たちは便利な世の中じゃないからこそ、たくさんの知恵を絞って生活していたのよ。」

それに比べて今は…と、頬に手を当てたまま、明地夫人は首を振った。

「嗚呼、駄目ね、昔は昔はとボヤくのは年をとった証拠。では、蔵之介さん、そのお着物預かっていくわ。」
「え、今ですか!?」
「すぐに繕った方がいいわ。さあさ、他にもあげた着物があるでしょう?
 それとも着替えるのを手伝いましょうか?」

「いいです!自分で着られますから…!」

居間の奥に慌てて引っ込む蔵之介を見送ると、明地夫人はクスクスと笑った。

お福といい、明地夫人といい、
年上の女性にはご用心と深く心に刻む蔵之介だった。


* * * * * * * * * *


梵蔵堂から上野方面に歩き、三崎坂を千駄木駅に向かって歩くと、不忍通りに出る。
そこからちょっと根津よりに歩くと、【千駄木露地】という洒落たイタリアンレストランがあった。
古民家を改造した落ちつく空間で、明る過ぎない照明もちょうどよく、デートにも最適だ。

雰囲気の良い広いカウンター席で、隣にいるのは残念ながら男だったが…。

「へえ、中々いいじゃない、うんうん。」

風間は赤ワインを掲げながら、きょろきょろと周囲を見回した。
「蔵ちゃんも、俺の好みをわかってきたねえ。くうぅ、同期の友情に乾杯!」

チリンとグラスが重なった。

「そんで、なんだっけ。ああ、プロジェクトチームで作ったTシャツな。」
「それと一緒に作った前掛けの方。」
「両方同じとこに頼んだよ、なになに、オリジナル商品でも作るの?」

赤ワインを傾けながら、風間が問う。

「ちょっとブログとかで人気があるからって、調子に乗って“蔵之介Tシャツ”とか作る気じゃないだろうな。ああん?」
「はは…、そこまで自惚れちゃいねえよ。」

前菜をつつきながら、蔵之介は首を振った。

「この前、出っ張ってた釘で着物引っかけちゃってさ。
 世話になってる人に“前掛け”でも作ればって言われて、風間を思い出した。」

「偉い!よくぞそこで思い出してくれた、素晴らしい!最高!よっ、蔵ちゃん!
 しかし、うちは書道家に書いてもらった文字をそのまま入稿したけど、デザインとかどうするんだ?」
「いつも、そうやって部下を褒めてるのか?逆に捻くれそうなんだが。
 雲丹屋さんが…、ああ、うちの看板をデザインしてくれた人なんだけど、
 あの看板をモチーフに前掛けもデザインしてくれるって。」

「逞しく育ってるよ、俺の人材教育は博通社イチ。
 知らない間にネットワーク広げてるなぁ、蔵ちゃん。
 あの看板をデザインした人とか、俺も是非お近づきになりたいくらいだ。」
「反面教師っていう教育方法じゃないといいが…。必要なら紹介するよ、だいぶ忙しいみたいだけど。」

風間は蔵之介の皮肉を聞き流し、鞄から分厚い名刺入れを取り出した。

「あい、う、え、え、え… ああ、あったあった。」

名刺を一枚引っ張り出すと、蔵之介の前に差し出す。

「前掛けのエヴリシング。西田社長には、博通社の風間の紹介だって言えば、すぐにわかると思うよ。」

蔵之介は連絡先を手帳に落とした。

「前掛け専門店なのか?」
「もともとはオリジナルのTシャツ屋だったんだが、色々なきっかけがあって、
 下降気味だった前掛けを広めようと動いているんだってよ。
 まあ、詳細が知りたければは西田社長が教えてくれるさ。」

手帳に書きこんだのを見届けると、風間は名刺をホルダーに戻した。

「確か完全なオリジナルになると20枚以上じゃなかったかな。
 自分用に3枚ぐらい取っておいて、あとは売ればいいよ、店頭で。
 …さあ、仕事の話はここまでだ。この巧そうな料理を味わおうぜ!」

風間は柔らかそうに煮込まれた肉料理が置かれると、机の上に広げていたものを鞄に仕舞いこんで、料理に向き直った。

「そういや、この前合コンで知り合った子とはどうなったんだっけ。」
「それ!ちょっと聞いてよ、蔵ちゃん、俺の失恋秘話!」



時々こうして顔を合わせ、他愛もない話を肴に朝方まで飲み歩き、
翌日は二日酔いに悩まされるというお決まりコースは、
互いに歩む道が違っても、ずっと変わらないのだろう。

2010.11.05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 第2章

再開宣言

再開します!と宣言しないといつまでもこのままなので、再開宣言。

2014.03.22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 梵蔵堂とは

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