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プロローグ

母方の祖父が死んだ。

東大出身で珍しく英語が出来たため、当時花形の財閥系総合商社に入社。
50代前半で執行役員にまで上り詰めた挙句、唐突に「古道具屋をやる」と辞めた男である。

あまりの自分勝手さに、箱入り娘であった祖母はついてゆけず、とうとう家を飛び出した。
飛び出した先は娘夫婦の家。つまり、蔵之介くらのすけのマンションである。
小学生だった蔵之介は、母と祖母、大人2人がリビングで泣いているのを見て、何か大変な事件に遭遇してしまったような気分になったのを今でも覚えている。
そして子供ながらに、居場所がなさそうに経済新聞を読んでいた父の姿に同情したものだった。

祖父は家事全般も難なくこなしていたようで――…祖母は誰か世話をしてくれる好い人でも居るに違いないと言い張っていたが――…結局、迎えに来ることはなかった。祖母はそれからずっと家にいて、もう夫婦の関係ではないと聞いたのは、小学校を卒業した頃だった。

祖父の古道具屋は台東区の谷中にあった。
霊園のすぐそばにあり、興味本位で見に行くのはなんだか気が引けた。
ただ、一度だけ、中学の頃に家族に黙って祖父の店を訪ねたことがある。

その時、どぎまぎするほどあでやかな若い女が居て、「おじいちゃんの新しい恋人?」と聞くと、祖父は驚いた顔をした後、ニヤニヤと笑って「そうだ、羨ましいだろう。」と笑った。
女も笑っていた。その顔があまりにも色っぽくて腰のあたりがウズウズとした…という記憶は、羞恥心と共に胸の奥に残っている。

祖父は背も高いし、彫りも深く、なによりオシャレだった。
夏は白絣にカンカン帽、冬は三つ揃いに中折れ帽のスタイルがよく似合う。
独り身ともなれば、多少色のある話も出てくるだろう。

蔵之介はふと思った。
彼女は、祖父が死んだのを、知っているのだろうか。

葬式は身内だけで執り行われ、孫の蔵之介と娘夫婦である父と母、あとは数人の親戚に見送られ、祖父は荼毘だびに付した。

「勝手に生きて、勝手に死んで、良い人生よね。」
立ち上る煙を見て、ぽつりと呟いた母の言葉が、今も耳に奥に残っている。


 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



「もし売りに出されるなら、この建物はそのままの方がいいかもしれませんね。」

よく通る声が、記憶の海に沈んでいく蔵之介の意識を引き上げた。

20年の時を経て、蔵之介は祖父の店を訪れている。
主を失った建物は、心なしか寂しげで、どんよりとしていた。
よく磨かれた古道具の棚には永井荷風ながいかふうの本が並んでいる。
祖父の心の師匠だと、昔訪ねた日の帰り際に本を貰ったが、結局読まずじまいだ。

「こんな古い家が…?」
「ええ、貸してもいいかもしれません。」

白澤不動産しろさわふどうさん――この辺り中心とした物件を扱う不動産屋で、祖父がこの物件を買い取ったときに世話になったという。今は息子が後を継いだようだ。
世代違えてまた世話になるというのは、どことなく親近感が湧く。

「墓場の近くで、築100年に近い物件なんて、借りる人いるんですかね。」
「谷中霊園は墓場というより公園に近い雰囲気ですから。春は桜も綺麗ですし。それに最近…ここ10年ぐらいですかね、この界隈で古い物件を探している若い方、多いんですよ。」

そういえば、蔵之介が在籍している広告代理店でも、地方自治体と連携し、蔵を改築して、地域の目玉になるレストランやカフェ、ホールなどをプロデュースしていく【RE:KURAプロジェクト】が好調だと言う。
この界隈は23区内にしては、のんびりとした空気が流れていて、古い建物が残された風景も心地よい。目まぐるしい時間の流れから離れて自分を見つめ直す時間を求める人が多くなっているのかもしれない。
蔵之介も入社以来、立ち止まることなく押し寄せる仕事の波を千切っては投げ整えては崩しと休みなく働いてきたが、久し振りに時間がゆっくりと流れている気がする。

「それに、古道具の金鳳亭きんぽうていといえばガイドブックには必ず乗るお店ですから、元金鳳亭となれば、すぐに借り手がつくと思いますよ。」

永井荷風が“断腸花(秋海どう)”という気に入りの花から自らの家を【断腸亭】と名付けたというエピソードを真似て、庭に咲いていた金鳳花から【金鳳亭】と名付けたという。
ここらへんのくだりは、白澤氏から得た知識だ。

「もし改装云々でお金をかけたくなければ、古道具付きの現状引き渡しでも全く問題ないと思います。」

店先から8畳ほどの畳の部屋に上がると、縁側から猫の額ほどの庭が一望できる。
年季の入った青緑色の物干し竿には、薄汚れたタオルがぶら下がっていた。

「夏なのに、涼しいですね。」

「ええ、昔の家は風通し良く造られていますから、冷房は絶対につけない、とおっしゃっていたんです。冬はストーブを焚けば越えられますからね。でも5年くらい前かな、猛暑が続いたでしょう?うちの父に“折角客が増え始めたんだから、せめて店の方にだけつけた方がいい”なんて言われてしぶしぶクーラーをつけられたんですよ。」

周りにいたのは家族ではなかったが、祖父は決して孤独ではなかったようだ。

家族と一緒に暮らしながらも、最後まで祖父を恨んでいた祖母の方が、よほど孤独だったのかもしれない。
今更ながら、祖母とあまり言葉をかわそうとしなかったことを後悔した。

元々名家だった祖母の遺産が入ると、両親は都心のマンションを売り払い、静岡に農園付きの家を買って移り住んだ。父は定年退職した日、母から、別れるか静岡に家を買うかという究極の選択を突きつけられたようだ。

結局母は“この世で一番嫌いな人”と称する祖父に似た性格をしている。

一度それを指摘したとき、林檎が飛んできて危うく鼻の骨を折るところだったので、その件については触れないことにしていた。
この店の件で白澤氏が母に連絡したときも「あんな店、煮るなり焼くなり好きにして」と取り付く島がなかったようで、そうはいっても人の家を勝手に売りさばくわけにもいかず、ようやくのことで蔵之介に辿り着いたという。

奥に進むと台所があり、その横は風呂場になっていた。
階段は急で、80過ぎの老人が住んでいたとは思えない造りだ。

金鳳亭きんぽうていさんは本当に若々しくて。こんな階段も軽い足取りで上がっていたんじゃないかと思うほどです。」

白澤氏は祖父を“金鳳亭さん”と呼ぶ。売れない落語家のようで可笑しかったが、その響きにはぬくもりがあった。

ギシギシと軋む階段を上がると、和室が3間。閉め切られた2階はムッとした熱気が籠っている。3間を仕切る襖を開き、雨戸を外して全ての窓を開けると、涼しい風が一気に通り抜けて行った。

通りに面した10畳の部屋は、祖父の書斎のようで、書庫よろしく本棚が並んでいた。
祖父の心の師匠である永井荷風はもちろん、夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥などの文学作品、江戸川乱歩や横溝正史に、エドガー・アラン・ポーやアガサ・クリスティーなどのミステリー小説も多い。

窓に面して置かれた存在感のある文机の上には、何冊もの原稿用紙と本が重ねられていた。

「小説でも書いていたんですかね。」
「いやあ…、そういう話は聞いたことがないですけどね。でも自叙伝でも書いたらどうですかって進めたことはありますよ。人様に見てもらうような人生じゃないって笑っていましたけど。」

蔵之介は、丸い煎餅布団の上に胡坐をかき、傍に転がっていた万年筆を拾い上げた。
開いた窓から雲ひとつない青空が広がっている。
ザワザワとした木々の擦れる音を聞きながら、生き急ぐように駆け抜けてきた日々が頭の中に浮かんでは消えた。

何を目指すわけでもなく、ただひたすら、滝の如く流れ落ちる時間を受け入れる毎日。
休み少なく働き、金を稼ぎ、比較的良いマンションに住んで、車も買った。
ときどきの休みはどこに行く気もせず、合コンで知り合った女から来たメールを思い出したように返してみる。
出逢いがないわけではない。何度か食事をするうちに深い付き合いに発展することはよくあった。だが、急な仕事でデートを直前キャンセルする羽目になり振られることもよくあった。

……それが、蔵之介の日常だった。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



「あ、明地あけちさん。」

不意に声がして我に返ると、窓際に立っていた白澤氏が窓から身を乗り出していた。

「ああ、白澤さん。……――あら。」

蔵之介が白澤氏の横から顔を出すと、窓の下にいた淡い紫色の着物を着た女性は、驚いたように日傘を下ろし、軽く頭を下げた。蔵之介も釣られるように頭を下げる。

「富士見坂にある“ふじみ荘”の大家さんです。この近くのご自宅で着付け教室をなさっているんですよ。」

白澤氏は口早に紹介すると「金鳳亭さんのお孫さんです。」と窓の下にも伝えた。
明地と呼ばれた女性はさらに驚いたように口に手を当て、今度は深々と頭を下げた。

「それは…、ご愁傷様でした。金鳳亭さんには色々とお世話になりまして。」

「いえ、こちらこそ祖父がお世話になりまして。」

蔵之介が身を乗り出すようにして返すと、明地夫人はしばらく眩しそうに蔵之助を見上げていたが、「嗚呼、金鳳亭さんと、よく似ていらっしゃるわ。」と静かに笑った。

「では白澤さん、あとで…15時過ぎるけれど、お伺いするから。」

「ええ、お待ちしております。」

明地夫人は着物によく似合う真っ白な日傘を差すと、カランコロンと軽やかな音を立てて遠ざかって行った。その姿が角を曲がると、白澤氏は窓を閉めた。風が止まるだけで温度が急に上がったように感じる。

「富士見坂というのは、富士山が見えるんですか?」

「ええ、今はマンションが建ってしまって半分ほど見えなくなっているんですが、冬の朝は特に綺麗に見えますよ。」

蔵之介は万年筆を机の上に置いた。『F坂の殺人』と見たことがあるようなタイトルが原稿用紙に殴り書きされている。

「“ふじみ荘”もかなり古い物件で、明地さんのご主人がご存命のときに、建て替えの話も出たんですが、安く借りたい人もいるだろうということで今もそのままなんです。」

「ああ、今はお独りなんですか?昔はさぞかし美人だったんでしょうね。あ、いや今も美人ですけど。」

軋む階段を降りながら蔵之介が言うと、白澤氏はわざとらしく声を潜めた。

「明地さんって……父の初恋の人なんです。」

不動産屋に着いた時、最初に対応してくれた年配の男の顔が思い浮かぶ。
白澤氏は笑いを含む口調で続けた。

「ご主人が亡くなる前はほとんど関わりなかったんですが、お独りになってからはご自身で動かざるをえないので、うちにも頻繁に来るようになったんです。だから、明地さんが来る日には、必ず父は店にいるんですよね、お気に入りのネクタイをつけて。」

蔵之介は笑った。

「ああ、だから今日も店にいらっしゃったんですね。まあ、初恋っていうのは、実らないからこそ、いつまでも甘い思い出ですから。」


……初恋。

あの女のなまめかしい笑顔が思い出される。祖父と一緒に柱の影からひょいと顔を出しそうで、思わず部屋の中を見回すと、年代物の柱時計が目に入った。ここを訪れてもう1時間も経っている。

釣られて時計を見上げた白澤氏は慌てて自分の腕時計を覗き込んだ。

「ああ、もうこんな時間ですね。お忙しいのにすいません。」

「いやいや、久し振りにゆっくり過ごせました。20年振りに祖父に歩み寄れたような気がして楽しかったです。」

店先のガラス戸から見える外は、うんざりするほど良い天気だ。
蝉の大合唱に、駆け回る子供たちの甲高い笑い声が響いた。

「では、ご検討いただいて…――」

言いかける白澤氏を制するように、蔵之介は首を振った。

「もう決めました。白澤さんには長い時間お付き合い頂いたのに申し訳ないんですが…。」

白澤氏は蔵之介の言葉を理解しようと、何度か目を瞬いた。

「と、おっしゃいますと…?」



「誰にも売らず貸さず。この店で、古道具屋をやろうと思います。」



蔵之介は、声を失う白澤氏の横を通り、店に下りると、並んだ古道具を眺めた。
白澤氏はしばらく固まっていたが、やがて嬉しそうに笑みを零すと、蔵之介の後を追って古道具の前に並んだ。

「古道具の金鳳亭復活ですか?」

「いや、祖父のやり方を引き継げるわけじゃないから、店の名前も変えようと思います。そうだなぁ……――蔵之介からクラをとって、古道具のボンクラ堂とか。」



20年前のあの日、祖父に将来の夢を聞かれた蔵之介は「良い大学にいって、良い会社に就職する」と答えた。すると祖父は「将来の夢がそんなチッポケとは、とんだボンクラだよ。蔵坊のクラはボンクラのクラに違いねえ」と呆れたように言った。



店の名前に、白澤氏は笑った。

「ボンクラって言葉、金鳳亭さん、よく使ってましたね。」

「口は悪いですからね、愛情のある罵倒ってやつかと。」



――ニャオン…。


蔵之介の言葉に賛成したように、どこかで猫の鳴き声がした。

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2010.08.30 | 第1章

1 女

会社を辞めて、祖父の店で古道具屋をやると報告した時、母は半ば怒ったような、そして半ば諦めたような口調で「好きにすれば」と言った。


蔵之介が勤める広告代理店『博通社』では、顧客が次々と不景気の波に飲み込まれていく中で、今年度中に大きな組織改編があるはずだと社内で囁かれていた。
現に、蔵之介のチームが担当している大手電機メーカーも、軒並み仕事が激減していた。
メーカー同士、不調な部署は縮小して飲み込まれ、好調な部署は拡大して合併し、そのたびにこちらまで競合他社と担当の座を争ってぶつかる羽目になる。
また、目まぐるしく変化する世の中に瞬時に対応するには、あまりにも組織が大きくなりすぎた。組織が大きすぎると前例や過去の成功談が壁となり、新しいことをひとつやり遂げるのに、必要以上の労力をかけなければならない。

上司に辞意を申し出ると、今まで辞める気配がなかっただけに、驚いた様子だった。
「死んだ祖父の店を継ぐため」と正しいような正しくないような理由をもっともらしく述べると、水面下で動いている10月の組織改編について教えてもらい、あっさりと9月末に退職することに決まった。

「これだと心に決めたら梃子でも動かねえって気でいてみろ、そうすりゃ周りが都合の良いように動くもんだ。」

祖父の持論だった。

「ただし、感謝の気持ちを忘れるな、蔵坊よ。自分のやることに最期まで責任を持て。最近の輩ってのは、感謝どころか人の所為、挙句の果てに責任の擦り付け合いだ。みっともないったらありゃしねえ。」

残念ながら感謝の気持ちとやらは祖母には伝わらなかったようだが、祖父が自分勝手で頑固なわりに人に囲まれて過ごしていたわけは、わかるような気がする。


蔵之介は五反田のマンションを引き払い、機能性よりもデザイン性で選んだ家具や家電やオシャレな家具は、必要なもの以外、売り払った。
霊園側の6畳間に運び込まれたダブルべッドも、古い台所に置かれたスタイリッシュな黒い冷蔵庫も、前の部屋では主役のように胸を張っていたのに、今では肩身が狭そうにしている。
反して、気紛れに買ったまま未使用だった木製のレコードプレーヤーが1階の8畳間に堂々と置かれていた。


12月。午後の5時を回ると外は既に薄暗い。

1月半ばの開店に向けての近所の挨拶もほとんど終わり、挨拶と交換のように貰ったお菓子や煮物などを並べて店先で一息ついていると、ゴウゴウと大きな音がして1台のトラックが店の前に止まった。

近所の人や通りすがりの人たちが興味深げに眺めている。
作業服姿の男たちが2人、トラックから滑り出ると、遅れて細身スーツの男が降りてきた。

「よおぉ、蔵ちゃん!」

男は、間口を広げるために入口のガラス戸を外す蔵之介に軽い足取りで歩み寄った。

「なんだ、風間も来たのか。」

業績好調なRE:KURAプロジェクト(※「プロローグ」か「登場人物紹介」参照)のプロジェクトリーダー、風間だった。同期入社で、調子が良く、上司にも受けがいい。

「おいおいおい、なんだってなんだ。同期の門出を祝おうってのに、随分なご挨拶だなあ!」

風間は蔵之介の肩をバシバシと叩くと、店を見上げた。

「へえ、中々洒落てる建物じゃないか。近くに谷中霊園っていう立地も良いよ。」

トラックの荷台から、片袖机、水屋箪笥、木製の棚などが次々と店先に運びこまれていく。古い家具には、現代のスタイリッシュなデザインの家具にはない、独特の渋みがある。

蔵之介が古道具の仕入先を探している時、風間から、蔵から出てくる古道具を買い取ってくれていた業者が不況で次々と倒産をしたため、古道具の処分に困っているという話を聞いた。そこで、その古道具を引き取る、という話を持ちかけたところ、話はトントン拍子に決まった。

「店に入りきらなかったら奥の納戸へ運んでください。」蔵之介は作業服の男たちに声を投げ「風間は、ここらへんに詳しいのかい。」と風間に向き直った。

風間は得意げに鼻を鳴らした。

「詳しくはないけど、多少勉強はしてるつもりだよ。蔵を再利用している事例を調べてたときにね、このあたりを散策したんだよ。ほら、もう少し先に古い蔵を利用したギャラリーがあるだろ?」

スペース小倉屋さんか。」

「そうそう!他にもこの界隈は雰囲気のある建物がたくさんあるから、参考になるよ。いろんな土地に行ったけど、俺たちから見ればレトロで良い雰囲気だ、なんて思う建物でも、その土地の人から見れば、何が良いのかさっぱりわからん!てことは多いから。」

「地元の人からすれば、いつもある風景だって、とんでもなく有名な観光地になることだってある。そういう意味では、この土地は古くからここで商売をしている人と、新しくこの土地に惚れて商売を開いた人が、巧く支え合っているような気がするよ。」

風間は店の中に足を踏み入れると目を細めて店内を見回した。

「蔵ちゃんも、この土地に惚れて新しく商売するクチだな。」

蔵之介も後に続く。石油ストーブ独特の暖かさが冷えた身体を包みこむ。

「ああ、この土地と、この土地の人の人柄に……――。」

蔵之介の声が途切れた。
店から居間に上がる入口にひとりの女が座っている。

風間は不審げに蔵之介を見ると、その視線を辿った。


…あの女だった。
祖父の横に寄り添い、蔵之介の心に甘酸っぱい余韻を残した女。
あの時と同じ姿形のまま、艶やかな微笑みを浮かべて蔵之介を見ていた。


「嘘だろ…」

風間は女と蔵之介を交互に見比べると、口元を歪めるように笑った。

「おいおい、蔵ちゃん…、そんなに驚くことはないだろ。」

風間は女に近づくと、その隣に座って顎を持ち上げた。
大きな漆黒の瞳が風間を見上げる。

「おい風間…」
「大丈夫、かみつきゃしないって。おー、随分と気の強そうな美人顔だ。」

風間が顔を近づけると、女は厭そうに顔を顰めて、身体をくねらせるように立ち上がり、部屋の奥でまた座り込んだ。

「ああ、逃げられちゃった。」

風間は眉を下げると、固まっている蔵之介を見上げた。

「なんだよ蔵ちゃん、まるで幽霊でも見たみたいな顔してるぜ?」

よっ、と掛け声とともに立ち上がると、風間は、トラックへと戻る作業服の男たちに片手を上げた。懐から封筒を取り出し、蔵之介の目の前に掲げる。

「それじゃ、これ請求書ね。」

蔵之介のポケットに請求書を突っ込むと、風間は肩を軽く叩いて店を出た。

「蔵ちゃんが、そこまで猫嫌いとは思わなかった。それとも黒猫が通り過ぎると死者が出る、なんて迷信、信じてるクチかい?」

「………。…猫?」

「猫だろ?黒猫。」

風間は顎で女を示すと、女は真っ赤な舌をちらりとのぞかせて、鳴いた。



「―――…ニャオン。」

2010.08.30 | 第1章

2 猫

賑やかな一団…主に賑やかだったのは風間ひとりだが、彼らが去った後の店内は妙に薄暗く、シンと静まりかえっていた。

そして店の奥の居間には女がいた。
祖父の恋人だったと思われる女が、20年前のあの時と変わらぬ姿で。

「あんたは……―― 何者だ…?」

「猫よ、彼も言ってたでしょ。」

脳みそに沁み込むような声、気だるげな仕草に、喋り方。

「俺には人間に見える。」

きんちゃんもそうだったみたい。」

「金ちゃん…?」

「アンタのおじーちゃん。金鳳亭の金ちゃん。」

蔵之介はおそるおそる居間に上がると、ちゃぶ台を挟んで女の向かい側に胡坐をかいた。

「爺さんの恋人だったのか?」

女はけらけらと笑った。

「そりゃ、金ちゃんは良い男だったけどもさ。猫と人じゃ、恋に落ちるのは難しいもの。」

「でも俺が『新しい恋人?』って聞いたら『そうだ』って言った。」

「可愛い蔵坊をからかったのよ。あとは嬉しかったから。」

女は小さな仏壇に飾られた写真をちらりと見た。

「嬉しかった?」

「アタシが見えたこと。周りの人にゃ猫にしか見えないからさ。アンタの目で同じように見えたことが、嬉しかったんだよ。アンタが帰ったあとにね、『やっぱり離れてたって血は繋がってやがるな』なんて笑ってたもの。」

幼い蔵之介が女を見て「おじいちゃんの恋人?」と訪ねた時、
祖父が少し驚いた顔をしたのをボンヤリと思いだした。

蔵之介も、女の視線を辿り、祖父の写真を見る。
まだ祖父が会社役員だった頃に、家族全員で撮った写真だ。

「あんた、名前は?」

「お福。」

「爺さんがつけたのか?」

「ううん、根津遊郭の姐さんにつけてもらったの。花紫って綺麗な姐さんでね、坪内っていう作家のセンセに貰われちゃったけど。」

蔵之介の頭の中では、根津という場所と遊郭という響きがあまりにもかけ離れていて、根津遊郭の根津がいわゆるこの地域の根津を示しているのだと理解するのに時間を要した。
ゆえに、お福の言う「坪内という作家のセンセ」が、教科書によく出てくる文豪、坪内逍遥つぼうちしょうようであることまでは頭が回らなかった。

「根津遊郭?根津のあたりに遊郭があったのか?」

「蔵坊アンタ、そんなことも知らないの?…まあ、当然か。今では面影すらもないし。結構大きな遊郭だったんだけど、明治の頃にねえ、洲崎に移転したのよ。」

「お福さん、蔵坊はやめてくれないか。もういい大人なんだから。」

「お福でいいわよ。いいじゃない、蔵坊。ああ、蔵ちゃんでもいいわね、風間って馴れ馴れしい彼が呼んでたみたいに。いい大人もなにも、アタシからすりゃ、金ちゃんだって子供みたいなもんよ。」

蔵之介の目には、まだ30前後に見える女だが、話を聞いていれば、明治の頃100年以上も前から、この土地に住んでいるということだ。
蔵之介の心を読んだように、お福はくつくつと笑った。

「そーよ、産まれてもう130年になるかな。今じゃ、谷中銀座を仕切ってるトラジロウも、よみせ通り仕切ってるキンジも、この辺りを仕切ってるテラスケも、皆アタシの子供やら孫やらだもの。」

「そういうの、化け猫とか猫又とか言うんじゃないのか?」

「あはは!ホント、金ちゃんと同じこと言うんだから!まあ、なんだっていいじゃない。この家に金ちゃんが帰ってきた気がして、わくわくしてんのよ。」

お福は、のそりのそりと四つん這いに蔵之介の方に歩むと横に座り、しな垂れかかった。
触れた部分がじんわりと温かく、金木製のような甘い香りが鼻腔を擽る。

「俺は、爺さんのように立派な人間じゃないよ。がっかりしない内に出て行った方がいいんじゃないか?それに、この古道具屋は金鳳亭じゃなくて、梵蔵堂になるんだ。」

蔵之介はお福を押しのけると立ち上がった。

「知っているわ。“蔵之介のクラはボンクラのクラの違いねえ”ってね。だから梵蔵堂。店の名前を変えようと、内装を変えようと、金ちゃんはアンタの心に棲みついてんのよ。…ああそうだ。」

何かを思い出したように、お福は気だるげに立ちあがると、幼い蔵之介の心に刻まれた艶めかしい笑いを浮かべて、手招きした。

「ねえ、いらっしゃいよ。二階の住民にはまだ逢ってないんでしょう?」

「…………。…二階の何?」

「二階の住民よ。金ちゃんがこの家を買い取る前から棲みついている古株なの。」


垂直に突っ立ったまま口を開けた蔵之介を、お福は一層可笑しそうに眺めた。

2010.08.30 | 第1章

3 文豪

「二階の住民よ。金ちゃんがこの家を買い取る前から棲みついている古株なの。」

お福の言葉に、蔵之介は全身を脳みそにして考えた。
二階は別の人に貸している、ということであれば不動産屋から当然話はあるはずだ。確かに、店の準備をしているときに、二階できしむ音が聞こえたり、紙を裂くような音が聞こえたり、何か気配を感じるようなことは、何度かあった。
しかし、だからといって、誰かが棲んでいる、という発想には至らなかった。

「もしかして…それは…――いわゆる、幽霊というやつ…?」

するりと軽やかな足取りでお福が階段を昇っていく。それを追うように蔵之介は階段を軋ませながら二階へと上がった。

「幽霊…、なんだか、文学的じゃないわねえ。」
「別に俺は文学者じゃない。」

お福が立ち止まったのは、書庫よろしく本棚が並ぶ通りに面した部屋の前だ。


「人ならざる者、人でない者、つまり我々は“人でなし”だな、お福。」


襖の向こうから、年配の男の声がした。

「言えてるわあ、さすが、アガサセンセ。」

蔵之介が勢いよく襖を開くと、窓に面した文机の前で胡坐あぐらをかいて腕を組む男の後ろ姿があった。


「誰だ、あんた!」

「誰だと聞かれれば、かの江戸川乱歩と肩を並べる文豪、阿嵩栗栖あがさくりすと言う。」

阿嵩は尻を軸にして、胡坐を掻いたままぐるりと蔵之介に向き直った。
つむぎの着物に羽織がよく似合っている。日本の文豪一覧に乗っていてもおかしくはない風貌である。

「自称文豪。」

お福がこっそりと耳打ちした。

「金さんから話は聞いているよ。」

「爺さん?」

「ちょっくら浄土に遊びに行くから、もし孫が来たら、頼むってね。」

「死ぬ前に?」

「どっちだったかな。死ぬ前も死んでからも元気だから、よく覚えていない。」

阿嵩は煎餅布団を二枚投げて寄越した。
蔵之介は何から言及すべきか悩んだ。なぜ、祖父は、蔵之介がこの店に来ることを予想していたのか。死ぬ前も死んでからも元気とは、どういうことか。

そもそも、ここまではっきりと会話をし、存在を認識している目の前の男は、本当に幽霊なのだろうか。

だが、どれも質問にするには、くだらないことのように思え、――というより、納得のいく答えは返ってこないだろうと思い――蔵之介は今のところ一番気になるところを訪ねた。

「江戸川乱歩が、エドガー・アラン・ポーの名前をもじったというのは有名な話だが、阿嵩栗栖という名前はもしかして、アガサ・クリスティの名前を?」

「その通り。エドガー・アラン・ポーよりもアガサ・クリスティの方が、ミステリー小説の執筆数はるかに多いからね。」

蔵之介は、熱心な読書家というわけでもないし、ミステリ愛好家というわけでもない。
一般的な知識の限りでは、阿嵩栗栖という小説家を聞いたことはなかった。

「ちなみに、主な作品は…?」

「“F坂の殺人”“路地裏の散歩者”“白蜥蜴”などなど。」

「江戸川乱歩の小説に“D坂の殺人”“屋根裏の散歩者”“黒蜥蜴”というものがあるが…。」

む、と阿嵩は唸るような声を漏らし、腕を組み直した。

「もじり詩というのも、立派な文学のひとつだと思うがね。江戸時代の粋な者たちが短歌をもじった狂歌というものを楽しんだという。それこそ、今では“ぱろでぃ”と言われて、ひとつの文学形式にもなっているじゃないか。当時認められなかったのは、私は、少しばかり先を歩きすぎたということだろう。」

阿嵩は自分の言葉に納得したように、何度も首を縦に動かしている。

「そう、阿嵩栗栖という名前も壁だったな。ある出版社では女の作家は受け付けないと言われ、またある出版社では女の作家かと思ったら男の作家だったとがっかりされた。」

「出版社は、断る理由を探していただけじゃない。」
茶化したようにお福が言った。

「オリジナルはないのか?」

「阿嵩栗栖の遺作となる“そして誰もが戻ってきた”」

蔵之介は本棚に視線を向け、外国小説の中に堂々と並んだ、アガサ・クリスティの代表作『そして誰もいなくなった』に目を留めた。

お福と阿嵩も釣られて、それを見る。阿嵩は肩を竦めた。

「よく知っているね。」

「たいていの文学作品は映画やテレビで流されているからね。読書好きでなくとも、ある程度は知ってるさ。」

「嗚呼、厄介な世の中だ。」

「でも、パロディは確かにひとつのジャンルとして確立していると思う。文学作品をもじった漫画や、漫画をもじったドラマだって出てくるぐらいだ。内容を読んでないからわからないが、“そして誰もが戻ってきた”なんて民放が喜んで使いそうだな。」

「読んでみた方がいいわよ。」
お福が茶化すように口を挟んだ。
「読まなくていい。」
阿嵩が遮る。

蔵之介は笑いながら首を振った。

「読まなくても、だいたい想像がつく。途中までは原作と同じように進んでいくけど、実は全員死んでいなかった、とか。もしくは、一家離散になった家庭が元に戻っていくヒューマンドラマとか。…――どうだい?」

「まあ、なんだっていいじゃないか。それより――」
「そんな単純な話じゃないのよ、いえ、そんな複雑な話じゃないのよ、かしら。」

お福は阿嵩の言葉に被せて、蔵之介に身を寄せた。
重大な打ち明け話をするように、背中を丸めると、わざとらしく声を潜める。

「なんたって、主人公はしかばね。」

「シカバネ?死んだ奴が主人公ってことか?」

「そう、可哀そうに、財産目当てで弟に殺された男なの。主人公は、そういう無念の思いを持った屍たちに、彼岸に自分を葬った人間たちに復讐しようと呼びかけるのよ。」

つまり、彼岸の日に“誰もが戻ってきた”ていうこと、と付け足すと、お福はまた、くすくすと笑った。

「なるほど。彼岸の日に悲願達成、なんて、まさかの謎かけ?」

阿嵩の耳がぴくりと動く。蔵之介は微妙な空気の中で言葉を探すように目を泳がせた。

「……。まあ…、死者が蘇って人間に復讐するなんて、ハリウッドが喜びそうな話だと思う。」

「かりうど?」お福が首を傾げた。

「ハリウッド。アメリカだよ。」

「亜米利加!」

押し黙っていた阿嵩が唐突に叫ぶ。

「なるほど、亜米利加ほどの大国が好むとは、日本人庶民には少しばかり高度だったということだな。」

阿嵩は急に上機嫌になると、満足げに頷いた。

2010.09.30 | 第1章

4 梵蔵太郎

無事、店がオープンして2ヶ月ほど経った頃。

オープン当日を襲った大雪の気配もどこへやら、春の日差しが暖かい季節になっていた。
金鳳亭の名で、ある程度のファンが出来ていたこともあり、悪くはないスタートだった。

高い調度品よりも、シンプルな造りで比較的安いものを揃えているため、新しくこの界隈にオープンするという店のオーナーなどもやってくる。
4~5ヶ月に1度のペースで蔵や古民家から出る古道具を処分するというRE:KURAプロジェクトの活動を考えると、売れすぎもせず、売れないわけでもなく、ちょうど良いと思える売れ行きだった。W大学の後輩が荒川区で家業の運送業を営んでいることもあり、都内の配送については安価に仕切ることもできた。
また古道具を引き取ってくれないかと言う要望もあり、買い取りについても請け負うことにした。そのため、家具だけでなく、扇風機、古い硯や昔のポスターなどの古雑貨も揃うようになり、懐古主義者やレトロ好きを喜ばせた。

お福も外面よく看板猫として客に可愛がられていた。

縁起が悪いと言われがちな黒猫のくせに、携帯の待ち受け画面にしておくと恋愛が成就するなどと、誰が言い始めたかそんな噂もたち、お福を携帯カメラで撮ってはしゃぐ若者の姿も目立つようになった。時に邪魔であり、時に客寄せパンダになるので、無下にも出来ず、蔵之介は苦笑を浮かべて眺めるしかなかった。

そんな苦い顔の蔵之介もいつの間にかカメラに収められているのだから、侮れない。

そして、数日後に「谷中の猫と古道具屋のイケメン店長」としてブログに掲載されているのだから、個人情報や著作権はうるさいくせに、肖像権はあってないようなものだと実感する。とはいえ、30過ぎてから若い娘に“イケメン”と言われるのは悪い気はしないので、特にそれを咎めるつもりもなかった。

とはいえ、いくつか書かれたブログのコメントの中に「イケメン??」「もう少し若かったら」「顎のラインが…」などと勝手な意見も上がっているのが腹立たしい。


「どうもー!ボンクラさーん!」

店先で女の声がした。

“梵蔵堂”という名前にして唯一計算ミスだったと思うことがひとつある。
店であれば、店の名前は知っていても、店主の本名など知らない、というのは普通である。祖父が金鳳亭さんや金さんと呼ばれていたように、「梵蔵堂」であれば、梵蔵堂さんや、梵さんと言われるのが当然だろう。
ただ、人は言いやすい言葉を選ぶ。
「金鳳亭」をキンポさんと呼ぶ人は、どことなく危険な匂いもするし誰もいないだろうが、「梵蔵堂」は、堂まで言わずに「梵蔵」でひとつの言語になるため、自然な流れで「梵蔵さん」と呼ばれることになるのだ。

要は、毎日「ボンクラ」と言われる。
なんだか、これも全て祖父に導かれた感じもして、妙な敗北感を感じるのだった。


「あれえ?ボンクラさぁーん!いないんですかー!」
「そんな大声出さなくても聞こえてます。」
店先に出て行くと、着物姿の若い女性が手を振った。
「そうでしたか、失礼。どうもどうも、雲丹屋うにやです。」

オープンして間もない時に、梵蔵堂の看板をどうしようかと悩んでいると、不意に訪ねてきたふじみ荘の明地夫人が
「まあまあ、それならうちに確かデザイン会社さんが入っていたはずだわ。とても愉快な方だからご相談してみてはいかが?」
と紹介してくれたのが、ふじみ荘の103号室に【不死身雲丹屋図案社】と手書きで書かれた表札をぺたりと貼っている怪しげな会社のデザイナーである。

「いやあ、この前お店を見た瞬間にピーンとインスピレーションが湧きましてね、頼まれた看板、もう出来ちゃったんですよ。」

後ろには男がニコニコと愛想よく笑っていた。台車の上に重そうな荷物が乗っていて、その上に白い布がかかっている。

「あ、彼はネットショップの店長です。」
蔵之介は慌てて頭に巻いていた手拭いをほどくと、店長に頭を下げた。
「初めまして、ネットショップではお世話になってます。」

看板を頼むときに、勢い余って「よし古道具のIT革命やー!」と雲丹屋と盛り上がり、雲丹屋図案社が運営するネットショップ【不死身雲丹屋売店】で梵蔵堂の古道具を委託販売することになったのだ。
家具よりも小物や雑貨が中心だが、それなりに好調だった。

「それで…、ああそう、この看板なんですけど、ちょっと問題がありまして。」

店長が白い布をぱっと取ると、丸い木の看板が姿を現した。

品揃豊富、高額買取、という文言の間に、「梵蔵堂」の店名が堂々と書かれている。
古い看板を再現した見事な造りだった。

「凄いな…、漠然としたイメージを伝えただけなのに理想通りだ。問題ってのは?」

店長が木の看板を台車から下ろした。丸いので、支えないとゴロリと転がってしまう。

「あらびっくり、この看板は自立しません。」
「……っ。」
「いっそゴロゴロ転がる看板!これぞボンクラな看板だ、なんて!あはは…」
「………。」

雲丹屋は軽く咳払いをすると二階を見上げた。

「やっぱり、二階に括りつけるしかないですかねえ。二階、上がってもいいですか?上がりますよ。」

雲丹屋は草履を脱ぐと、居間に上がっていく。店長が重そうな看板を軽々と持ち上げて、雲丹屋の後を追った。

「いやいやいや、ちょっと。」

水屋箪笥にでも立て懸けようか…と考えていた蔵之介は、二人の行動に一歩出遅れ、慌てて二人の後を追った。
通り側の部屋は、思い切り阿嵩の部屋である。あの勢いで入っていけば、またややこしく機嫌を損ねるに違いない。

お福は居間に寝そべったまま、面白そうに一同を見送った。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 


雲丹屋は通り側の部屋の襖を開くと、驚いたように立ち止り、文机に向かう阿嵩の後ろ姿にぺこりと頭を下げた。

「あや、失礼。雲丹屋です。ちょっと看板をぶらさげるのでお邪魔しています。」

蔵之介と振り返った阿嵩は唖然として雲丹屋を見た。
店長が後ろから覗き込み、部屋を見回しながら「なにかいるんだね。」と頷いた。
雲丹屋はフンフンと謎の歌を口ずさみながら、窓を開けると、屋根を見下ろす。

「店長、ちょっとちょっと。ここに看板括りつけるって大丈夫かなあ。」

店長が窓から身を乗り出して、手すりや屋根の強度を確かめはじめた。

「金さんが一度立派な看板を作って屋根に取り付けたが、台風の日に外れかかって、それ以来危ないから下ろしていたよ。」
阿嵩が蔵之介に言うと、雲丹屋が振り返った。

「ですよねえ。やっぱり自立できるように作り直すべきかなあ…。」
「また見事に丸っこい看板を作ったね。ところで、ウニさんは私が見えるのかな?」
「雲丹屋(ウニヤ)です。ああ、若干透けてると思ったら、やっぱり幽霊さんでいらっしゃいましたか。なんででしょうねえ。見えるんです。」
「彼には見えないみたいだね。」

懸命に看板を取り付けようと身を乗り出している店長の後ろ姿を示して、阿嵩が言った。

「ええ。彼には別のものが見えます、お金の流れとか細かく。そっちの方が不思議。」
「ああ、そっちの能力の方が羨ましいね。」
蔵之介は頷いた。

「そう、ウニさん。あれ、使えないかな。」
「雲丹屋です。あれって?」
阿嵩が押入れを示した。
「前に金さん…ああ、蔵之介の爺さんで、元々ここで店をやっていた男だが、それが酔っぱらって持って帰ってきた変な人形があるんだ。」
「それは、ケンタッキーおじさん的な何かですかね。」
「そう、たぶんどこかの店の看板小僧だったんだろうな。もう15年くらい前になるが。」
蔵之介が押入を開けると、奥の方で何かと目が合った。

「……。」

後ろから雲丹屋が覗き込む。
「はっ…、何かが居る…。」

蔵之介がズルズルと引っ張り寄せると、それは全貌を現した。
カンカン帽をかぶり前掛けをした、昔の商人風の男の木彫人形だった。

「死んだ魚の目をしていますね、コレ…。」
雲丹屋が唸った。

朽ちて汚れてはいるが、足元はしっかりとしている。
「どうぞいらっしゃい」とばかりに折り曲げた手は、何かを引っかけていた痕があった。

「店長、店長、看板、看板!」

いまだに窓から身を乗り出していた店長はパンパンと手を払うと振り返った。
「やっぱり屋根の上に取り付けるには補強しないと、――おわ!」

急に現れた木彫人形に足を竦める店長から看板を奪うと、
雲丹屋はその人形に看板を持たせた。


bonkura.gif


「おお!」

まるで、その看板は最初からそこにあったかのように綺麗に収まった。
木彫人形の死んだ魚の目が看板の向こうからチョコンと出て、こちらを見ている。
今まで無表情に見えていた顔が「寄ってね。」と言いたげに見えた。

「なんてベストマッチ…。」

拍手を送る三人に、店長も加わった。

「よおし、ここはひとつ、この阿嵩栗栖が命名しよう。梵蔵堂のシンボルとしてふさわしい名前… ………―――梵蔵太郎。」
「おお!溜めたわりに捻りのない名前…!」

こうして、梵蔵堂の看板小僧“梵蔵太郎”は阿嵩の部屋にて産声をあげた。




【第一章 終】

2010.10.30 | 第1章

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